「誰」という記憶を蓄えてる細胞たち

やっと、サイエンスの論文が世に出ました。
"Ventral CA1 neurons store social memory.”
http://science.sciencemag.org/content/353/6307/1536


MIT NewsはAnne Traftonさんという非常に優秀なライターの方が素敵な記事にしてくれました。
僕も解説記事をいつかきちんと書こうと思います。なんでこういう研究するに至ったかという部分含めて。

MIT News
http://news.mit.edu/2016/scientists-identify-neurons-social-memory-0929

朝日新聞
http://www.asahi.com/articles/ASJ9X6T25J9XULBJ01S.html




この緑色の細胞たちが、「他人についての記憶」をためている細胞たち。

総説などのまとめ (2014年度上半期)

写真をクリックして、
写真の下の「オリジナルサイズを表示」をクリックすると拡大されます。


[本]
新・生命科学シリーズ 『動物行動の分子生物学』(裳華房
5章 オプトジェネティクスによる神経科学の急展開



[雑誌]
恋の分子生物学:Molecular Biology of the “LOVE”
恋ごころをコントロールするためのサイエンス(岩波『科学』7月号) 

http://www.iwanami.co.jp/kagaku/KaMo201407.html



鉄緑会会報 OB/OGインタビュー








[コラム]
顔かお金か...恋ごころか...?(東大理学部ニュース5月号)


「SF - F = S」な暮らし(東大理学部ニュース3月号)



メダカを駆使して恋ごころの正体に迫れ!(遺伝研ニュースレター)
http://www.shigen.nig.ac.jp/shigen/news/n_letter/2014/nl201407.pdf



[総説]
メダカを用いた分子遺伝学的手法による魚類「社会脳」の分子神経基盤の解明
奥山輝大・竹内秀明 (比較生理生化学学会)









[Web]
メダカの雌が見知った雄を配偶者として選択する行動の神経基盤
(ライフサイエンス 新着論文レビュー)

http://first.lifesciencedb.jp/archives/8284



メダカの恋に火をつけるニューロンを発見!
〜メダカをモデル動物に社会性行動を探求する竹内・奥山コンビを訪ねて〜
テルモ科学技術振興財団)

https://www.terumozaidan.or.jp/labo/technology/22/index.html








[ラジオ]
バイリンガルニュース( 第67回の34:19〜ラストまで)
http://hwcdn.libsyn.com/p/2/1/d/21d4fe1479c104e5/022014.mp3?c_id=6863701&expiration=1393701921&hwt=bf10f4a4a865e2787654124a860de037

小生、窓際族になる。

今まではDry Labというデスクワーク用の部屋だったのだが、Wetの研究者なのでWetラボの方にデスクとベンチを貰えることになった。先週末でいなくなった院生のスペースにそのまま入る事に。ラボの中でも太陽光が十分に入るスペースで、奥まっているので誰も来ないという僕の理想環境が揃っている(実は前から少し狙っていた)席に移動になった。


新しいラボベンチとデスク。きれいなのは今のうち。


デスクの部分の拡大。もっかい言います。きれいなのは今のうち。


ラボの中にはもちろんいろんなヒトがいて、しゃべるのが好きなタイプ、ディスカッション好きなタイプ、静かに考え事をしたいタイプ等々であるが、僕の新しいお隣のポスドクさんは「静かに考え事をしたいタイプ」(いつも、テラス席でさりげによくかち合う!笑)なので、辺り一帯静かで考え事にも最適。早くこの席から面白いデータを生み出したいものです!



ラボの廊下にはこれまでのラボから出た主要論文がずらっと並ぶ。


その片隅にはこんな紙が一枚。うっしゃー!こっちも頑張ろう!という気持ちになる一枚。

小生、マウスとネコくんと友達になる。

怒濤の1ヶ月間が経過した。

家の周りの探索、ソーシャルセキュリティーナンバー、MITのID、生命保険、部屋の鍵、動物講習会、携帯電話、銀行口座の開設、etc…。初めの一ヶ月なんてそんなことばっかりで経過していく。ただ、MITはドイツと比較して、圧倒的にシステムが整っているのでそのあたりはずいぶん楽。ID#で一括管理してくれているので、たとえば予防接種を受けるときも、こっちの名前さえ言えば、他の必要情報は勝手にデータベースから引き出してきてくれる。(その結果、医者が「ごめん、今日ちょっと忙しくなっちゃった、リスケしてくれない?」という電話を携帯にかけてくるという不幸を招いたのだが…)ただ、システムが整っているとは言うものの、そこはアメリカ、家賃の支払いも小切手だし、わからないことだらけ。ドイツの時にも経験したことだが、一番初めのひと月は「分からないことを分かる」ことよりも「分からないということに慣れる」に意識を置いた方が、肩の力も抜けるし意外といろいろとうまくいく。



うちの前の桜もきれい。右の白い家がうち。


大家さんのネコくんもだいぶこころを許してくれるようになった。ひなたぼっこを激写!


かーーーわいいのでもう一枚!!!


MITの駅前の桜。


このあたりからMIT。


研究はというと、まずはマウスに慣れるところから。もちろん、メダカからマウス、日本からアメリカの両方に起因するが、regulationが厳しく、恐ろしく手間が多い。マウスの個体ごとに管理して、プロトコルを実験前に全て提出してからでないと操作を行うことはできないし、プロトコル提出後の実験の方針転換は全く認められていない。土日もスタッフがマウス管理に来ていて、手術したマウスの体調が悪かった場合は、携帯に連絡がくるし、カルテのようなカードも6~7種類用意されていて、飼育ケージに一つずつ付けられている。麻酔、痛み止め、安楽死方法などについても非常に厳しい。僕ら研究者が日本で「モデル動物」として捉えているところよりも「ヒトの病院患者」にだいぶ寄ったところに位置している。その方法のガイドラインがかかれた英語200ページのファイルが突然渡され、その中から50問出題されるOnlineクイズを90%以上でパスしなければマウス室に入るカードすら発効してもらえない。



テロの爪痕も回復してきつつある。


警官が銃殺された場所の献花。左奥の水色のガラス張りの建物がうちの研究所。


ラボのTea Roomのとなりが、5〜7階の吹き抜けテラス。ここはガチで思考活動がはかどる。


寝転んでソファで論文を読んでる時にとった一枚。


2階はこんな感じ。左に見えるのが卓球場。


2階からテラスを見たところ。


研究戦略の立て方もだいぶ異なっている。魚よりも一つの実験にかかる時間的なコストがはるかに大きいので、実験の無駄打ち(よく言うと、「試し実験」か?)が難しい。自分の意識のなかからトランスジェニック作りという部分をごそっと抜く必要があって、ショートスパンの計画を、全てウイルス中心のワークにシフトしなければならない。また、会話が重要。何がやられていて、何がやられていないか、何の道具があって、何の道具がないか、全てはディスカッションから始まる。コラボレーションも全ては会話から。先生もはじめの二週間はひたすら「ラボメンバーと話せ!」と言っていたし、非常に納得する。最後に、戦略の立て方。alternative planを用意するのはもちろんとして、Yes/Noで結果が明確に出る実験を前に配置しつつチャレンジングな実験とコンビネーション、そして何よりEnd pointの明確化。「ここまでやって、結果が回収出来なかった場合には、プロジェクトは引きずらずに引き上げる」という点をあらかじめ用意する。株の投資のようだ。

というわけで、なんとか初めてのプロジェクトも決まり、5月からは実験が本格的にスタート。おちこんだりもしたけれど、私はギリギリげんきです。




夜のPicower。


毎週月曜はアイスクリームスペースが作られる。


たいていフロアでは4時くらいから何かしらのイベントかセミナーがあって、食べ物には困らない。

小生、テロに巻き込まれる。

ボストン、激動の一週間が明けた。


事件発生の流れはアメリカだけでなく日本でも多く報道されていることだろう。事件発生は今週の月曜日だった。ボストンマラソンゴール付近での爆破事件である。月曜日はマサチューセッツの休日だそうで、休日の来る来ないは研究者の裁量に任されている。先週の金曜日の時点で秘書さんも「私は来ないわよ!ボストンマラソンもあるしね!」と言っていたし、先週一緒に飲んでいた永田からもボストンマラソンというアメリカでの屈指のスポーツイベントがある事を聞いていたので、ほうほうそんなイベントが…と頭の片隅にインプットされていた。

さて、当日の僕はというと、とりあえずラボに向かって、だらだらと午後のひと時を論文を読みながら過ごそうと決めていた。プロジェクトの詳細が決まっていない焦りもあるし、そもそも僕は人気の無いラボというものが大好きで、とりわけPicower Instituteのガラス張りテラスは、僕のラボ選びに多少なりとも影響を与えうるほどに好みの空間なのである。とりわけ天候もよく、太陽もさんさんと降り注いでいたので、ちょっと面倒だしマラソンを見に行くのはやめて、ビタミンD For freeの空間で、一日論文を読み耽ることに決めた。

昼過ぎ、胃もコーヒーでボロボロになり、海馬と扁桃体の辟易するほどの知見に集中力を掻きむらされ始めた頃、テラスに電話をしにくるラボの院生の姿が。プライベートな電話などをするために、皆がよくテラスを利用している。彼が帰ると、また別のポスドクが電話しにきて、さらにまた。今日はやたらヒトが来るなと思い、荷物をまとめて居室に帰る。居室の僕の真後ろのデスクは、今年からきた真面目な大学院生なのだが、めずらしく何かの動画を見ている。まぁ休みだもんねー、と思いつつパソコンのメールをチェックしてびっくり。MITのアラートメールが数通。ボストンマラソン?爆発?テロ?死者?え?えええ?

さっきまでの不可解な出来事が一本線に繋がり始めて、ふっと懐かしの古畑任三郎の「偶然が3回続いたら偶然じゃない」という台詞を思い出した(この言葉はサイエンスにもとてもよく当てはまると思う)。大学院生の見ていた動画が、件の事件のニュースだと知る。そのあとは報道の通りだった。時間が経つにつれて、事件が偶然の爆発ではなく、テロだということが分かり始め、凄惨な写真が報道され、相当数の死傷者が出た事を知った。爆発が起きたところも、僕のいるラボからチャールズ川を隔てて、ほんの目と鼻の先の位置だったということも。自分の人生で初めて、「アメリカって怖いな」と思った一瞬だった。


明くる火曜日、朝から街はピリピリしていた。Red lineもGreen lineも全ての駅の改札で手荷物検査があり、各出口には全て軍人が配備されていた。僕は携帯を手にいれるためにCentral stationや、ソーシャルセキュリティナンバーを手に入れるためにNorth stationまで行ったりと電車を駆使していたので、その度に手荷物検査をされゲンナリ。ソーシャルセキュリティナンバーを手に入れるための役所は、ボストンで言うところの永田町のような場所にあって、当然ながらそのエリアでは特に警戒が厳重だった。サブマシンガンでフル武装した数人の部隊などに遭遇するたびに、安全と健康は失って初めて価値が分かるという言葉を実感した。

そのあとも、事件の事を忘れた頃に「○○の建物で不審物が見つかったから、接近するな」といったMITアラートメールが数回にわたって届き、何かと落ち着かない日々が続いた。そして木曜日の夜になるのである。


木曜日。僕はディスカッションを終えて、9時頃にラボを出ていた。今週末はボストンビールフェスティバル、ワインフェスティバル、MIT Media Labフェスティバルとイベント続きの予定だったので、ちょっと楽しみにしながら、早くも週末へとこころが飛びつつあった。家について、メールをチェックしていると、またもMITアラートメールが。また何か不審物が見つかったか?と思っていたら、

「本日、10:48PMに32号館でガンショットがあったという報告がありました。そのエリアを封鎖します。ケガ人がいるかなどの状況は不明ですが、事態はまだ落ち着いておらず、極めて危険です。」

えええ?事件が起きたのは32号館で、僕のラボがあるのは46号館。真向かいの建物で、32号館は食堂やらジムやらが入っていて、ほぼ毎日必ず立ち寄る建物である。つい1時間ほど前にも僕はそこにいた。今から考えると、ほぼ間違いなくその時点で犯人はそのエリアにいたわけで、そう考えると肝が冷える。慌てて、News、Facebook, Twitterなどを駆使して情報収集に努める。警官が撃たれて亡くなった事、まだ実験していたラボメンバーはエリアに封鎖されたことを知る。


続々と入ってくるアラートメール、MITの緊急掲示板に最新情報が書き込まれ、緊急事態感が高まる。絶対に外出するなと。時間も日を跨いでいたので、ベッドに入って目をつぶるも、パトカーのサイレン音がしきりに続いていて、あまり深くは眠る事ができなかった。


金曜日。本来ならラボミーティングの日だったが、早朝にラボのメーリスで先生から「Do NOT Come to Work Today」というメールが流れる。ニュースを付けると、そもそもケンブリッジエリアは犯人逮捕のために全ての地下鉄がストップしており、外出禁止令。街はゴーストタウン状態になっており、銃殺があったMITは全て封鎖されていることを知る。どうやら、ウォータータウンで銃撃戦があったようで、犯人のうちの一人が死に、もう一人が逃亡中のようだった。ラボメンバーが教えてくれたBoston PoliceのTwitterアカウントは最新情報を伝えてくれており、Policeからの会見で二人組の姿が公開され、どうやらチェチェン出身の兄弟だという情報が入ってきた。

昼過ぎになってもパトカーのサイレン音はずっと続いているし、ヘリコプターのプロベラ音も近くなってきており、「戦争中」といった感が強くなってくる。SWATも街中のいろいろなところに配置されはじめたようだった。テレビを見ると、生中継の映像などが流れるのだが、軍、警察関係者が作戦の支障になるから映すなと止められるシーンも多数。少なくとも、犯人同様、我々ボストンに暮らす人間も、今どうなっていて、どの方向に包囲網が閉じていっているのかがわからない時間が続いていた。夜、テレビニュースが犯人の弟を逮捕したという速報が大々的に報じられるまで。

テレビは盛大に、犯人逮捕と地域住民へのインタビューを繰り返していた。「本当に許せない事件だったが、警察や軍が犯人を逮捕してくれた!本当に感謝している!」といった内容で、住民もやっと解放されて家の外に出てきて、しきりに拍手している。僕はというと、事件一段落にほっとする気持ちと、アメリカ国民ではない一歩外から状況を見た時の「国民感情が煽られているストーリー」じみた事件に対して、少し怖くなる気持ちが混じりあっていた。


土曜日。昨日の鬱憤を晴らそうというのか、街はやけにヒトが溢れていた。逆に警察や軍関係者は一切がいなくなっており、完全解決した感じが漲っていた。しかしながら、本音を言うといささか不可解な部分が残りすぎる事件だった。まず、本当にこの二人組が犯人なのか?彼らは月曜日に爆破してから、超厳重警戒態勢のボストンから逃げることもなく、滞在し続け、木曜日にコンビニに強盗に押し入り、警察を銃で撃って逃亡したそうだ。あまりにお粗末すぎる結末。わざわざ、そこでコンビニ強盗するか?という疑問。一部ニュースでは、件のバックパックボストンマラソン時に、置いていく別の二人組について報じられている。

さらに疑問なのは街から、あまりにすっぱりと軍関係者がいなくなったことだ。火曜日、水曜日とあそこまで厳しい手荷物検査をしていたにも関わらず、土曜日以降は誰もいない。さすがに犯人が別にいる可能性などを考慮して、あと2日間ほどは続けるのが普通ではないかと思うのだが。もしかしたら、事前に何か情報をつかんでいたのではないかなとも思う。


昼過ぎに大学に着くと、まさに僕のラボのある場所の目の前で献花が行われていた。ここが警官が銃殺された場所なのだろう。事件の本質がどのようであったにせよ、彼が26歳という若さで犠牲になった事は事実だし、彼がMITの生徒や研究者を守ったのも事実である。ハーバードとMITというボストンの抱える二大スクールは、アメリカの象徴の一つでもあるし、次なるテロの標的に十分成り得ただろう。MIT学長のメッセージとともに、MIT newsも ‘He loved us, and we loved him’と題した記事を伝えた。

アメリカという国について、危ないという認識を持ちつつも、今まで何回来ている経験も手伝ってか、どこか僕は安心していたと思う。本当のアメリカ暮らしが始まってまだ間もないが、テロ、戦争、銃社会の恐怖、この国の抱える闇の部分を、カウンターパンチのようにくらった重たい一週間であった。

小生、少々、酒を嗜む。

ミュンヘンに行ってきた。正確には、ミュンヘンで「飲んできた」という方が正しい可能性すらある。金曜日の夕方にカールスルーエを出た。金曜日の午後はこちらはほとんど休みの感じすらあるのだが、一応15時までは仕事をしてカールスルーエのHbfへ。時間が余っていたので、駅でビールを2杯ほど。もうほとんどソフトドリンク感覚である。

カールスルーエからミュンヘンまでは2〜3時間ほど。一眠りすれば到着する距離感である。今回の旅の目的の一つはミュンヘンのマックスプランク研究所を見る事であった。東大の時の良き友であり、釣り仲間でもある市之瀬くんがマックスプランクの博士過程にいるので、彼の家に御厄介になることにした。のせ氏の指示に従い、ミュンヘンから一路マックスプランクを目指す。だいたいメインHbfから40〜50分ほどで到着。いろいろなところに資金の豊かさを感じるし、それ以上に研究面での充実を実感した。前ラボの上司の繋がりで何回かお会いしたことある日本人ポスドクの方もここで働いていることを知っていたので、ディスカッションしつつラボを案内してもらったが、やはりカールスルーエとは動いている額の規模が違うことを思い知る。もちろんストックセンターであるKITとは金の使いどころが違うというのもあるかもしれないが、神経系の研究をするならば、資金的にも人材的にも本当に充実している研究所である。

三人で一緒に夕御飯に。のせ氏の家の近くのメキシコ(?)料理屋。イカのカラマリがあんまりこっちで食べない食材なので、気持ち的にも新鮮で美味しかった。ErdingerのWeissの樽生を2杯ほど。帰りがけにサービスで謎のウゾを1ショット頂いたので、それもお腹におさめつつ。

2日目。のせ氏の家で一泊し、目覚めると9時くらいに。白ソーセージをのせ氏に御馳走していただきつつ、ダラダラと家を出る。ミュンヘンで有名な白ソーセージは昔は鮮度の都合から、午前中しか食べられなかったらしく、今でもその習慣を引きづり、食べるのは12時まで。お店に行っても、12時以降は食べることはできない。なかなか面白い風習だ。

のせ氏の家から歩いて10分ほどでオクトーバーフェストの会場があるとのことなので、自分の死地を検証するべく、そこまで散歩。まだ建設中であったが、ビール専用のテントと大きな像が建造中ですでに自分の中では闘いへの血潮が沸き立つのを感じた。

少しお買い物をしたあとに、ミュンヘンの中心であるMarienplatzへ。駅を降りるとすぐに圧倒的な歴史を感じる市庁舎がそびえ立つ。まぁそれを観察しつつ、市庁舎の中のオープンビアパブへ。フランティスカーーーーーーナ!日本でも好きでよく飲むビールだが、ここでは500mlの大ジョッキで3.5ユーロ。美味いし、天気も良いので外で飲める樽生は最高である。

さくっと一杯飲んだあとに、将軍廟とやらに向かう。大きな広場の前にギリシャ風の建物がどーんとそびえ立っているが、そんなものはもはやどうでもよい。目の前の広場ではドイツワイン祭りをやっていたからだ。Frankenweinというジャンルで各醸造所がテントを出していて、各テントが10種類ほどのワインを提供している。スパークリングのWeingut Scheuring 2009 Winzersektを飲んだ後に、白2011er Riesling Apatiese trocken→白Weingut Rainer Sauner 2011のSilvanerを頂いた(あともう一杯飲んだのだが、忘れてしまった…)。

軽く目の前にある大聖堂を回った後に、最後は赤ということで、Cabernet Dorsa 2009。一緒に食べた魚の燻製がたまらなく美味しかった。こちらにきてから食べた魚料理の中でベスト。

夜は、のせ師のラボの日本人ポスドクの方と一緒に御飯にいく約束をしていたので、それまでの間少し観光をして時間をつぶす。別の大聖堂に行ったのだが、ミサ中で中の見学はできなかったので、しょうがないので、目の前のカフェでさらにビールをもう一杯。Kuchlbauer WeissのDunkelだったかな?合流後は典型的なドイツ料理屋へ。肉とビールの取り合わせは本当に絶妙で、食事だけだったら、この国で自分はずっと生きていけるなと確信出来るレベル。この店と提携しているのか、「このオリジナルビールが美味いぞ!」とおばちゃんが言う物だから、SchneiderWeiss TAP7 Unser Originalを大瓶で二杯頂いて、ミュンヘン二日目終了。

3日目、起床して、のせ師の友人と合流しようということに。ミュンヘンに留学しにきている日本人だそうだ。話をしているうちに、衝撃的なことに、僕の中高の後輩であり、そして、僕の塾講師バイト時代の教え子であることが発覚。世界は狭いものである。ドイツに来ているはずなのに、こちらで出会う日本人の方はいずれも、直接の友人か、ヒトを一人介した知人。

そしてやってきました!HOFBRAUHAUSE!!ビールの聖地の一つであります。ホフブロイ醸造所直営の巨大なビアパブで、内装・外観が美しいだけではなく、ドイツの歴史の舞台に登場することもあるパブである。ちなみに、3階のホールでヒトラーが聴衆2000人の前で演説し、25カ条綱領が承認されたのも、このホフブロイハウスである。夜はお互いの声も聞こえないくらいウルサいらしいのだが、12時前ということもあり比較的静か。それでも多くのヒトが日曜の朝とばかりにビールを頼み続けている。

まずはHofbrau Dunkelを注文。ワクワクして待っていたら、なんとただの500mlの大ジョッキで出てきおった。このビアパブのウリは1リットルの特大ジョッキのはずなのに。日本人の肝臓もナメられたものである。さくっと頂いて、次はHofbrau Originalを「1リットルで!」と注文。やってきました特大ジョッキ。これであります。ホールには音楽隊がいて、生演奏を奏でているのだが、ときどき「乾杯の歌(Ein Prosit)」が流れる。すると、男達は皆、特大ジョッキ片手に立ち上がり、胸に手を当てて朗らかに歌い、終わるとみんなで乾杯!なんという天国のような国であろうか。ソーセージとステーキも美味しかった。そのあと、Munchner Weissを飲もうとしたら、店員のお姉さんが間違えて、またもやHofbrau Originalを1リットル持ってきた。「ごめん!まぁ、飲んでよ!」というので、有り難くもう1リットル頂き、最後にWeissを飲んでHofbrauhouseを後にした。

さて、帰りの電車まであと2時間ほど。中途半端に時間が余ってしまい、観光するには時間が足りない。というわけで、ホフブロイと並んで、僕の大好きなフランティスカーナを作っているシュパーテン醸造所の直営パブを訪ねることにした。ハムとチーズを頂きつつ、フランティスカーナのDunkelを500mlしっかり頂きました。なんやかんやで、Weiss系の方が僕は好きで、本当に言葉通りいくらでも飲めてしまう。

最後に駅で、電車用ビールを1本買って無事にカールスルーエに帰宅。カールスルーエの地元の教会を見ると少し安心するようになった自分がいる。のせ氏、いろいろありがとうございました。非常に楽しいミュンヘンの酒旅であった。

小生、活きている。

カールスルーエのカイザーストリートには数多くの小さな店々が立ち並んでいるが、その中でも僕のお気に入りで鉄板で美味いところが3カ所ある。一つは連日紹介しているビアアカデミー。生ビールの品揃えが良く回転率も高いので、他店よりもヴァイツェンが美味い。この街では、生はある決まった醸造所のビールしか置かず、他種は豊富な瓶ビールでカバーというタイプの店の方が多いので(店先に特定の醸造所名の看板が掲げられているところは特にその傾向あり)、豊富な生が飲めるというのはなかなか魅力的である。

もう一つは、一度だけ紹介している、Kofflersという肉屋。店先に多くの肉が立ち並び、それをニンニク炒めしたオニオンとともにパンに挟んで出してくれる。生ビールが一種類しかないところが残念だが、ストリート沿いの店先の席も用意されているので、夏はなかなか気持ちよく豪快なバーガーとも言い難い「バーガー」を楽しむことができる。

さて、今日紹介したいのは、Schlemmermeyerという肉屋。兎にも角にも生ハムを含めたハムの揃えが充実している。スーパーマーケットでもハムの揃えは充実しているのだが、さすが専門店、こちらの方がより種類が多く、サービスもいい。僕が外国人だからというのもあるかもしれないが、悩んでいると、サクサク肉を切って味見させてくれるのも、小さい店ならではの魅力である。2〜3ユーロの安ワインを1本買って、生ハムとチーズを買って家に帰るのがとてつもない贅沢なのである。

生ハムは大きく、「塩漬け・乾燥のみで燻煙しないハム」か「燻煙はするが加熱しないハム」に大別され、イタリアのプロシュットやスペインのハモンセラーノは前者に、ドイツのラックスハムは後者にカテゴライズされる。そもそも、「ラックス」とはドイツ語で鮭のことで、鮭の肉のように鮮やかな紅色をしたハムという意味だそうだ。だいたい縦15cm、横30cmくらいのスライスに切ってくれて、4~5スライスで100gくらいで、価格は3ユーロ(=300円)ほど。2種類くらい買えば十分な御馳走である。

今日は初めて燻製生ハムにトライしてみた。元々燻製は大好きだったのだが、前いたラボの隣のラボに、お父様が燻製を作るのが御趣味という院生がいて、作って下さった鮭の燻製を食べて以来、僕は実は燻製の魅力に取り憑かれている。日本に帰ったら、いつか必ず燻製教室に通いたい。今日は本場の燻製生ハムを食べたわけだが、これはもう掛け値無しで死ぬほど美味い。一人で食べるのが本当にもったいないとこころから思ったほど。生ハム自体でも美味しいのに、そこに煙の複雑な魅力が相まって、日本にはなかなか無い味と香りのハーモニーである。こういう美味しさに出会った瞬間、やはり海外は必ず結婚してから、一緒に行くのが良いと思えてくる。正直、つらいことも感動することも多くあり、結婚式の決まり文句ではないが、悲しみは半分に、幸せは倍にできれば、何と楽しいところなのだろうと、想像しただけで思えてくるのだ。

こう思えるのも、ヨーロッパならではというところもあるかもしれない。今まで何回か1ヶ月単位でアメリカに滞在はしたこともあったが、こういう気持ちにはならなかった。つらさの部分で言うと「言語」の問題が、幸せ部分で言うと「文化」と「食事」が理由かもしれない。思った以上に言語の問題は大きな壁で、英語をしゃべれるヒトを探さないといけない瞬間は多い。街中に氾濫する掲示板や注意書きも、まぁほぼ全く意味はわからないので、少しずつストレスが蓄積することは間違い無い。一方で、文化や食事については素晴らしいの一言に尽きる。ちょっとした小さい街でも、ものすごく歴史のある大聖堂や宮殿・城などがあるし、食事や酒も魅力的で多様性があり洗練されている。これはアメリカには無い魅力である。

研究に関しても、この問題は関連していて、アメリカよりもヨーロッパは多様性を許容する環境が整っている。こちらの持ち込んだ「意味不明なもの」に対しても、頭から拒絶するのではなく、どうしたら現実的なプランになるかというベースで話しを始める態度には、極めて好感が持てる。それは、ヨーロッパ全体が他民族国家というか、様々な種類の人種が混じり合うところにも由来するのかもしれない。僕のいる研究所も構成している人種はバラバラで、PIですらもドイツ人、イラン人、フランス人、オーストラリア人、スイス人などなどで様々だ。全く分野違いの研究者とのディスカッションは日本やアメリカよりも多いと感じた。マイナス点は、動いている予算がアメリカよりも少ないので「お金で解決」という発想はあまり無いこと、ハーバードやMITといった大きな有名大学では無いので、サイエンティフィックな刺激が少ない事、「今の自分のペースで大丈夫なのか?」といった不安が生まれやすいという事だ。地味に、研究所が契約していないために「ダウンロードできないジャーナル」が多く存在することもストレスにはなっている。

まぁ、ただ最終的には自分がどういうサイエンスに最も興奮できるかであるので、精一杯ここでしか味わえない感動や苦しさを楽しめる事ができれば幸いである。一昨日もスリにあい、ショックと言えばショックだったが、なかなか無い体験をできたという意味では、僕にとってはプラスである(別にもう一回会いたいというわけでは無いのはもちろんのこと)。こうして文章を綴っている中で、ふと、僕の中高時代の校長先生である樋口貞三先生の事を思い出した。

氏は猛烈に変わった校長先生であり、そして、僕の人生の中で最も尊敬する校長先生であった。大抵、「校長先生のお話」というのは心底退屈なものだが、僕らの事を「諸君!」と呼び、そこから始まる彼の言葉(というよりも「演説」)は、いつも情熱的でこころを打ち震わせてくれ、そして何より、長い年月が経った今でさえも心に燻るものであった。とりわけ彼の最も好きな言葉であり、同じ時代をあそこで生きた若者のこころに強く刻まれたのは、「ビビンシャ」というスペイン語であった。意味は「活きた体験」。「知識」でも、単なる「体験」でもなく、自分の意識や行動を変えうる、「活きた体験」を何よりも追い求めよ、というのが彼が数年間に渡って我々に発し続けた強いメッセージであった。こうして考えると、異国の地でわけも分からず必死にもがき、何かを得て少しずつではあるが前に進むのは、僕の人生の中の紛れもない「活きた体験」であると思えるのだ。(今調べたら、アマゾンで樋口先生の本が出ていたので、是非、御興味がある方は彼のメッセージを受け取ってみてほしい。『身体の飢餓と魂の飢餓―筑駒校長としての一四六一日 』樋口貞三著)

今日の日記は、自戒も混めて、尊敬する樋口貞三先生の言葉で締めたいと思う。僕らの愛するあの中高を、彼が去る際の、最後の「演説」の中の、最後の「言葉」である。「私は最後に、諸君らにこの言葉を贈りたいと思う」とした上で、こうおっしゃった。

「Boys, be ビビンシャス!!」(樋口貞三)