フェロモンによる脳の切り替え 〜男脳と女脳はなぜ生まれる?〜

さて、今日はフェロモンの話から少し別方面に話題を展開してみよう。


マウスなどの齧歯類で極めてよく研究されている事なのだが、「フェロモン」と「通常の匂い物質」は鼻の中でも感じている場所が異なっている。どちらも多くの場合、非常に小さな化学物質が、ぷーーーんと空気中を飛んでいて、その物質が鼻にある受容体で受け取られることで、信号が走るわけなのだが、解剖学的に言うと、「通常の匂い物質」は主嗅上皮(MOE)という場所で受容されたあとに主嗅球へと情報が送られる一方、「フェロモン」は鋤鼻器(VNO)という場所で受容されたあとに副嗅球へと情報が送られるという差がある。(写真はOlfactory signalling in vertebrates and insects: differences and commonalities(Kaupp et al. Nature Review 11:188, 2010)より。これはよくまとまっている論文。)


余談ではあるが、ヘビやトカゲなどの爬虫類は、このフェロモンを受容するための鋤鼻器を左右に一対ずつ持っていて、彼らの二股に分かれた舌が頻繁に出入りしているのは、空気中を飛んでいるフェロモンなどの化学物質を舌に付着させ、左右の鋤鼻器へ運ぶためである。別に嘘をつきまくったから二枚舌になったわけではない。


この鋤鼻器に発現しているフェロモンの受容体V2Rを世界で初めて同定したのが、現在、ハーバード大の分子細胞生物学科のリーダーを務めているCatherine Dulacという女性である。彼女はもともと、匂いの受容体に関する一連の仕事によってノーベル賞を受賞したRichard AxelとLinda Buckと共に仕事をしていて、匂いからフェロモンへと研究を展開して成功をおさめた人物だ。彼女の近年の仕事の一つとして、2007年のNatureの仕事「A functional circuit underlying male sexual behaviour in the female mouse brain.」(Kimuchi et al. Nature 448:1009, 2007)を紹介しよう。


この論文のメインテーマを簡単に言うならば、「フェロモン信号を完全に消失したときに、マウスはどう変わるか」ということである。フェロモンを受容する鋤鼻器の信号を伝えるのに必要なTrpc2という遺伝子の変異体を作成して、フェロモン信号を完全に落としたところ、なんとびっくり、変異体メスは他のメスにマウンティングし、セクシーな声を上げ、腰を振り、(何も無いのに…)挿入しようという動きを見せたのである。動画を見て頂きたい。Trpc2の変異体メスが、普通のメスに対して必死にマウンティングしようとしているところがわかるであろう。2007年のSFN(北米神経学会)では、巨大なレクチャー会場にこの動画が流れて、まさに会場が失笑という感じであったのを今でも覚えている。さらに、筆者らは成体のメスマウスにおいて、鋤鼻器を外科的に削り取る事によっても同じ行動を示す事を報告している。



ここまでで示している興味深い事実は、哺乳類の脳の中には、男性的な行動をする神経回路も、女性的な行動をする神経回路も両方ともが存在していて、ただ単に「フェロモンの信号がスイッチのように働く事で、男脳と女脳が切り替わっている」ということを示唆した点である。以前までは、「男性ホルモンであるテストステロンが、オス特異的な神経回路の発生を開始する」と考えられていたが、本論文は成体においても未だ両者が共存していることを示した初めての論文である。(下図はFemales can also be from Mars(Shah et al. Nature 448:999, 2007)より)



さらに、フェロモン信号を感じられないTrpc2変異体の「オス」では、どうなるかというと「オスに対しても、メスに対しても求愛、交尾行動を示す」ことを報告している。つまり、相手がオスなのかメスなのか認識できていないのである(sexual discriminationの異常)。人間で言えば、バイセクシャル的な行動を示すようになったのである。もしかしたら、人間の性行動の異常もこういうところに原因を見出すことができるのかもしれない。人間もただの動物なのだから。


人間を高等動物として、他の動物から切り離して議論する方もいる。例えば、「感情」をキーワードとして、「こんなに複雑なものは他の動物には存在しない」と声高に主張する。しかしながら、生物学者の多くが実感できることではあるが、「複雑に感じるものほど単純で、単純に感じるものほど複雑である」ことがしばしばあるのだ。進化上、後に生まれたヒトのような生物にしか存在しない「感情」のような現象は、確かに特殊ではあるが、逆説的に言えば「進化する時間が無かったシステム」でもある。近代の分子生物学が、気分の躁や鬱をセロトニンというたった一つのシステムに落としつつあるのも一つの証拠だ。それよりも、あまりに単純で多くの動物が持っている、例えば「視覚」のようなものの方が実はよっぽど複雑でありうるのだ。システムとして進化する時間が十分に有り余っていたからだ。「なぜ、こう見えるのか?」の全てを明らかにするまでには、まだまだ年月が必要であろう。人間とは、あくまで動物であり、その全ての起源や痕跡を他の動物に見出すことができる。そして「感情」が持つような複雑性(正確には、複雑に見えているだけなのだが)を紐解くことこそが我々生物学者の最も得意とする範疇であると私は思うのである。

さて、視覚の話をしたので、少しヒトの視覚から見た恋愛についても考えてみよう。

どのような顔が好みなのか?視覚と恋愛の関係性は?

それはまた別のおはなし。