小生、はからずも東大農学部バーに思いを馳せる。

Education is what remains after one has forgotten what one has learned in school.
~ Albert Einstein

教育とは、学校で習ったすべてのことを忘れてしまった後に、自分の中に残るものをいう
アルバート・アインシュタイン

土日は両日ともに、午後はカフェ。二日間でコーヒー10杯とビール5杯を消費しながら、ひたすらアイディアを練り続ける。自画自賛で申し訳ないが、仮にうまくいったら最高と言える至高のアイディア達である。こういうのは、大抵どこかで詰まってうまくいかないのだが、まずもって考えるのが楽しいし、うまくいったら尚更楽しいので、とりあえず考えられるだけ考え、一人で変態的にニヤニヤしながらメモ帳へと書いていく。書いては崩し、書いては崩しをしているにつれ、アイディアは練られていくものだ。僕はアイディアを考えるときに、「客観的に考えた時にどれだけレアなアイディアか(オリジナリティ)」「実現までかかる時間と費用(コスト)」「最も成功したときと最も失敗したときの差分がどの程度あるか(リスク)」の3点を評価基準にして進めるのだが、これもシミュレーションゲームのようで楽しい限りである。

このアイディアメモ帳は、一年に一度更新している。SFN(北米神経学会)に参加する際に、毎年目をつけた大学or研究所を狙って、絨毯爆撃的にディスカッションとセミナー講演を行っているのだが、その帰りに1冊大学ノートを買ってくるようにしているからだ。大抵、どの大学も厚さ1〜2センチくらいで大学のロゴの入った黒い装丁のノートが生協的な売店に売られていて、毎年、新しいアイディアでその1冊を毎年埋め尽くす事を目標にしている。昔のアイディアノートをたまに見返すとなかなか面白くて、たまに紙の隅っこに走り書きで「これ、意外とつまらなくない?」とか「Excellent!!!」などと書いてあって、数年前の苦悩している自分を思い出し、これまたニヤニヤできるのである。

このように「今はまだ早いとしても、いつか使えうるアイディア」を頭の床に並べておくことは極めて重要だと僕は考えている。僕の母親も研究者なのだが、昔から縦10cm横15cmくらいの紙にアイディアを書くヒトで、論文を書く際には、文字通りうちの床にその紙を並べ、うんうん頭を傾げながら、順番を変え、ストーリーの推敲をしていたものだ。確かにこの方法は、ふつうならば結びつきづらい2点のアイディアを有機的に結びつけることと、僕の母親が我が家の床を本とゴミまみれにしても片付けをしないための言い訳には極めて効果的であった。理想的にはそれが頭の中の床でできる事であり、そのためにはいつも新しい事を考えていることが重要であるのは言うまでもない。

日本の大学院生の多くは、あまりこの時間を取らない事が大きな問題の一つであると思う。そもそも、考えたアイディアを議論し、improveして、実際に許可を与えてくれる様々な意味で有能な上司が必要なわけだが(僕はそういう意味で大学院時代には極めて恵まれていたと言える)、そうでなくとも「仕事量をこなす事」が「いいアイディアを形にすること」よりもプライオリティの上位に来ている日本の研究者は多い。極論になるが、僕はLoss of functionとGain of functionの生物学は、一生のうちに一回は経験した方がいいと思うが、それ以上そこにいても苦しいと思うのだ。「AならばB」を証明する世界は「仕事量」を要求する一方、ある程度fineなアウトラインを形作るデータさえ出れば、あとは誰にでも出うる発想・出来る実験に落ち込んでしまい、そこに存在するオリジナリティのウエイトは少ない(ただ、ハイインパクトなジャーナルはこれを求めるというジレンマがあるわけだが…)。かくいう僕も学部生の頃にはA→Bの世界にいて、鼻息荒く実験し、鼻息荒くキレイなデータを出し、鼻息荒く「どうだ!」と発表会でプレゼンしていたわけだが、そんな僕を「A→Bはわかりましたが、ではそのAは何の因子が制御しているのですか?さらにその因子は何が制御しているんですか?どこまで、この繰り返しを詰めれば君は満足なんですか?」という、未だ尚、こころのなかに燻っている質問でピノキオの鼻をバッサリと切断して下さったのが、僕の大学院時代の指導教授その人であった。

この発想のネルネルネールネに重要なのは「他人との議論」と「自分との議論」のバランスにあると感じている。一人で考えていても煮詰まるだけであるし、一人で考える時間がなければ他人の思考の傀儡である。この両方を行うことができる場所は、僕にとっては「喫茶店」と「バー」である。

本郷三丁目にはスタバがあり、僕の実験計画のほとんどはあの窓際の席で練られたものだ。ごくごく最近、日本のスタバもFree wifiを導入したそうで、僕はこの企画を非常に評価している。無理は承知で言っているが、東大は本郷三丁目の指定喫茶店におけるFree wifi導入、電源設備の増強、大学と同様の論文ダウンロード可能環境を援助すれば、大学としての効率は極めて上昇すると思う。喫茶店の仕事環境は、海外スタンダードと比較して日本はまだ低い。

さて一方で、この数年間の中の東大が行った変革の中で、最も素晴らしく、最も僕に影響を与え、最も僕の研究を良い方向に導いたのは、間違いなく「農学部バーS」の設立であったと確信している。2年ほど前に東大が突然、銀座のバーを学内に誘致したのである。自分との議論が足りないかもしれないと感じる院生に僕が確実にお勧めしたいのは、とりあえず一人で農学部バーに行って、ウイスキーを飲みながらただただ今やってる事について考え続けることである。おそらく、思った以上に自分と会話する時間が取れ、思った以上に自分が自分を知らない事に気付ける一瞬だと思う。ちなみに正直に言うと、僕は大抵飲み過ぎて、何を考えていたのか覚えていないのだけど、その中でも思い出せることが一番いいアイディアであり、このようなアインシュタイン的アプローチも可能なのが、農学部バーである。ちなみに、海外では学内にビアパブなどがあるのは一般的であり、そこで多くのディスカッションが行われているが、日本ではこれまであまりこのような施設は大学組織にはなかった。「効果」よりも「建前」を重視する日本らしい点だとも思うが、これはフランクなディスカッションの場を提供するという意味においても、東大が他の大学に先駆けて行った極めて先見性の高い戦略であったとこころから思う。

本日の徒然なる日記の結論は、ここに置こうと思う。若人よ、農学部バーへ行け。